「もうすぐ死ぬんだから意味ないじゃない」

 おばあちゃんは1月のお手入れをしたその1週間後に逝去。

私は四十九日法要に参列し、ともに手を合わせて参りました。

 

おばあちゃんのお手入れをしてきたことはこちらで

http://sakura444.hatenablog.com/entry/2016/01/23/135744

ご覧いただけます

 

 入院しているおばあちゃんのお顔や手、足、首などをお手入れをさせていただいた、あの時の後日談です。

 

四十九日の法要で一緒におばあちゃんにお別れのご挨拶をさせていただいた後、お母さんが病院でのエピソードを話してくれました。

 

おばあちゃんは既に脳の放射線治療であまり言葉が出なくなってしまっていました。

おいしいものが食べたいのに病院の食事の味付けがひどすぎて、持参した梅干しやお母さんの煮物や、差し入れしたバターサンドはよく食べていたのに、病院の食事を残すことが多く、病院側は「もう食べられない」と勝手に判断して、栄養ドリンク1缶しか出してくれなくなってしまいました。

それだけでもひどいと思ってしまったのですが、私がお手入れをしている様子を見た看護師さんが

「あの人は誰?何者なの?」とお母さんに尋ねてきました。

以下、お母さんと看護師さんのやり取りです。

 

看護師「あの人は誰?何者なの?」

母「あの人は娘の友達です。」

看護師「なんであんなこと(お顔のお手入れ)してんの?

母「・・・(嫌味な言い方をする看護師にムカッとして言葉が出ない)」

看護師「もうあと少しなんだから、あんなことしても意味ないんじゃない?だいたい何であんなことしてんの?プロなの?」(訳:命はあと少しでもうすぐ死ぬんだから、お顔のお手入れをしてきれいになっても意味ないでしょう。そもそも、娘の友達という人は親族でもないのにどうしてそんなことをするの?プロのエステティシャンなの?もうすぐ死ぬ人からお金をもらっているの?)

母「(カッチーーン) 意味なくない!!東京からわざわざ自分のお金でお見舞いに来てくれて、(お手入れを)やってくれているその心が嬉しいのよ!このことで病院に何か迷惑かけたか?だいたい、やってもらうことの意味はこっちが持っているんであって、あんたは関係ないでしょ!プロ?プロじゃないよ。プロじゃなかったら何だって言うのよ!あんたたちに何か迷惑かけたか?」

 

 この話を聞いてはっとしました。私は、看護師さんたちのジェラシーを計算に入れていなかったのです。

確かに一度、おばあちゃんの寝返りのために部屋から追い出されたとき、看護師さんは

「へ~ エステですか。エステなんかやってもらってんだ~」とニヤニヤ笑いながら、なんか馬鹿にしたような言い方をして、こそこそとこちらの噂話をしていたのを目撃しました。

 

 私は病院でおばあちゃんのお手入れをすることで、おばあちゃんに感謝を伝えたり少しでも励ましになればと思っていて、それしか考えていなかったのですが、それを面白くないと思った看護師さんがいたら、病気で話もできないおばあちゃんに、嫌がらせの一つでもしたかもしれません。

 

 実はおばあちゃんが亡くなった時、ふつうは危篤状態になったかどうか、という時に家族に連絡が来て臨終を見届けるものですが、その病院では「亡くなりました」という連絡をよこしていたのです。実は死後2~3時間たってから、慌てて電話が来たようでした。

 つまり、病院はおばあちゃんの急変に気づかなかったのか、わざと無視していたのか、それとも医療ミスでもあったのか。疑念が生まれるような連絡でした。

 

 まさか旅立つ姿もつやつやの美しいお肌であることにジェラシーを感じていたことが理由でこんなことに?

 

 そんな風に思いたくはないけど、「もうすぐ死ぬんだから」というようなことを、親族のしかも長女に言ってくるなんて、ひどい言いがかりだし、家族の気持ちを考えられない最低な看護師がその病院にはいる、ということなんですよね。

 

 そのエピソードを話してくれたお母さんは、また怒りがこみあげてきて興奮し、目の前にその看護師が現れたらボコボコにするんじゃないかと思われるほどの怒号をきかせていました。

 同時に、真剣な様子で私をかばってくれていたのも感じます。

 私はお母さんに何度も「かばってくれてありがとうございました。」と頭を下げました。

 もしかしたら話すことができないおばあちゃんも、お母さんの体を借りて一緒に怒って看護師さんに全力で反撃してくれていたんだろうな、と思うと、二人分の怒りならそりゃあれだけのことになるだろうなと思ったりして。武勇伝がまた一つ加わったということのようで。

 

 おばあちゃんは、3人の子供(本当は4人だったけど一人が早く逝去されたので)と、10人の孫と1人のひ孫、そして多くの友人たちに囲まれ、美しい素肌を取り戻し、若いころに入れ墨でいれた眉とアイラインが目鼻立ちをくっきりと際立たせ、私が買った「おばあちゃん専用薔薇の花のついた爪やすり」を持って、川を渡りました。

 

 なんとなく思ったのですが…

例えば服を買ったり靴を買ったり、素敵なオレンジのバッグをもらったりしたとき、とても素敵なものだから「もったいないから大事な日に使おう」と思いますか?

それとも「もったいないから毎日使おう」と思いますか?

 

もったいないから今はしまっておいて、ここぞという時に出してきて使おう、と思っている場合、私もそういうところがあったのですが、それって、いざ使いたいときには似合わなかったり、探すのが大変だったり、使い慣れてなくてイライラしてしまったり、窮屈な気持ちを持ったりするんですよね。なのに、毎日の自分のために使うのはもったいない、と思ってしまう。

 

逆にもったいないから今日も使おう、これからは毎日の出勤にこれを使おう、という時は、「毎日が特別」なんですよね。毎日が素敵。毎日がおしゃれ。毎日の自分がその素敵なお洋服にとっても似合っている。

 

高かったり、特別に嬉しかったりすると、汚したくないし壊したくないし大事にしたいから、持ち歩くのを拒んだりしてしまう。

 

そんなときに「どうせ今日はスーパーに行くだけだから、ほうれん草買ってくるだけだから、もったいないからこれはおいていこう。こっちのサンダルでいいや。」なんて思ってしまって、今の自分がどうでもいいようなものに思えてしまう。ちゃんとお化粧してデパートに行くときにこれを持っていこう。今日は近所だし。

 

そんなときについ出てくる「どうせ」と、先ほどの看護師さんの心無い「どうせ死ぬんだから」の「どうせ」って、同類項ではないかと思ったのです。

 

「どうせ死ぬんだから」

「どうせ汚すんだから」

「どうせお金ないんだから」

「どうせ見てくれる人もいないんだから」

「どうせ死ぬんだから」

 

なんてさみしい言葉なんでしょうか。

 

 私は「やっと40歳を過ぎたから」「やっと少し収入を持てるようになったから」正々堂々と「素肌美人」だと自慢したい。

 

「40歳半ばの独身・未婚・彼氏なし・ウエストから太ももが巨大で貧血持ち」

 

どうせそんなおばさんなんだから、正々堂々と美しくなってやろうじゃありませんか。

 

おばあちゃんがお手入れしてもらって何が悪いの?

美しい肌を取り戻して、隣のベッドのおばあちゃんに自慢して何が悪い?

60年70年80年90年100年 曲がりなりにも一生懸命生きてきた。

そんな女性がお肌とか髪とかファッションとかにお金をかけて、何がいけないの?

 

 「美しくなること」

これは女性の特別に与えられた権利であり、楽しみであり、活力です。

 

 「どうせ死ぬんだから」と、自分も他人も卑下して意地悪をするような心では、どんなに高い化粧品を使っても、誰も美しいと褒めてくれないと思うけど。

 

 今頃ですが、その看護師さんのやることなすことにとても悔しい。

そんなひどいことを言った看護師さんに

「鏡を見なさい!!」

と言ってやりたい。

 

あーーー くやしい!